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久しぶりに、と言うか一周回って再び中米連邦でプレイしている訳ですが。
分裂しないと言うのはかなりハードルが低いので、今回はこの混乱を利用して革命を起こしてみました。

どうも民主政体よりも君主政体の方がゲーム的にはやりやすい感じが…。
多分移民は少な目になるでしょうけど、国家としては立憲君主国の方が安定感があります。

史実では合衆国型の連邦国家を目指して、結局各州の(地主達の)エゴを調整しきれずに分解した訳ですが、
アングロサクソン的というかプロテスタント的な国家感は、ラテン系の中米人には不向きだったのでしょう。
経済レベルでは現在も一塊りなのに、政治的には様々ないきさつもあって再統合は難しいのでしょう。

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実際にこの手の小説を読まなくなって久しいのですが、一時期はかなり填りました。
この本はそうした本をなんと100シリーズも纏めて紹介すると言うある種画期的なモノです。
厳選という以上、此処に取り上げられなかったモノもあり、実際に此処に上がっていないモノで読んだ覚えの有るタイトルもいくつか思いつきます。

中心となるのはやはり三英傑(この表現は一般的ではないでしょうか)信長・秀吉・家康でしょう。
これが三人とも登場しない架空戦国記は恐らく考えられないでしょう。
歴史上の勝利者である彼らは多くの場合作中で割りを喰うコトになります。
信長の場合は、まあ本能寺の逆転があるのでまだしもですが。秀吉が史実よりおいしい目に遭うことはまずあり得ず、家康に至ってはもう間違いなく敵役です。
信玄と謙信はほぼ間違いなく史実よりおいしいですが、どちらが主役を張るかによってその度合いも変わります。
しかしこの二人以上に優遇されているのは伊達と真田ではないでしょうか。
政宗と幸村はおそらくマニア人気が高く、この手の小説において需要が高いのでしょう。
この両名は実際に表紙絵にも登場しています。
別に嫌いでは無いのですが、この二人(幸村の父昌幸も含めて三人)が登場するとあまりに主人公補正がきつすぎて萎えます。
上は信長と秀吉なのは良いとして、残りの一人が直江兼続なのは来年の大河を意識しているのでしょうねえ。
大河と言えば、「利家とまつ」をやっていた頃は前田家に着目した作品も多かったのではないでしょうか。
前田慶次なんかも、登場すると必ずおいしい役どころですね。
やりすぎるとシミュレーションではなく趣味れーしょんに成ってしまう訳ですが、そう言う自分も好きな武将が活躍するのは愉しいですし。

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第四章 領土拡大
 まだ交戦中のギリシアへの遠征。翌年1月に二県割譲で和平。(巻き戻し前はここで領土を取りすぎてBBR値を溜めすぎてしまった)最期に残ったロシアも翌月に和平成立。5月、ロシアはドイツとの大戦で大きく領土を失って講和。
 10月30日、自由党政権へ移行。併せて報道の自由と集会の自由を認める。選挙制度については保留。(共産党政権のまま普通選挙を導入すると一気にプロレタリア革命が起きてしまう)
 明けて01年7月1日、新領地の開発(工場建設)とPOPの転換を終了し、普通選挙による総選挙に突入。翌年3月1日に自由党政権の継続が決まる。
 02年11月、ボスニアとの平和条約が失効。直ちに関係を断絶して戦争に突入する。今回は他国の介入もなく、翌年4月に併合。三県の内一県をセルビアへ割譲し衛星国として独立させる。
 04年1月1日、対オーストリア戦を睨んでイタリアとの防衛同盟を締結。これでしばらくは安全である。
 05年2月、ロシア・イタリアとの外交交渉。海外領土を整理して差益を稼ぐ。
 3月3日、イデオロギー思想を開発。自由主義に関わる思想が広まって、多元性(と自由主義者)が大きく増える。06年、選挙戦で自由党が再選。
 同12月、ロシア・オスマンとの外交交渉。ロシアが支配する旧オスマン領を仲介して代わりにエーゲ海へ穏出口となるテッサロキニ他を獲得。ギリシア回収(解放に非ず)の第一段階。
 07年1月2日、ボスニアとの技術交換。同月10日、オーストリアがボスニアに宣戦布告。同盟に従って参戦する。こちらからの宣戦になるので、イタリアとの同盟が意味を為さない。残念ながら、ボスニア方面は捨てるしかない。ボスニア領が奪われても、その背後にセルビア・モンテネグロ領があるので敵はそれ以上は進めない。3月、ボスニアはオーストリアに併合。オーストリアはロシアと同盟。但し防衛同盟のためこの戦争には影響しない。
 戦線は国境から一歩進んだ地点で膠着。軍事技術の差で敵軍に突破される可能性は低いが、消耗戦に成れば人口で劣る我が国は不利になる。幾度も和平交渉を持ちかけるが了承されない。09年1月にイタリアとの防衛同盟が失効。イタリアは即日我が国への独立保証を約束。1月30日に国家と政府が開発。聖職者主義・官僚主義・体制主義そして貴族主義を選択。
 4月、イタリアと同盟。イタリアの参戦により戦況は一気にこちらに傾いた。半年後に単独講和し。一気に8県を獲得する。残る中核都市は4県なのだが、何故か新領地は飛び地をぐるりと取り囲む形になった。多分、土地単位の優先順位が有るのだろうけど…。
 10年5月、イタリアとオーストリアの和平。イタリアの新領地はオーストリアの首都ウィーンを取り囲む形になった。首都は最期まで割譲されないのだからこれは当然ではあるのだが。
 7月26日、新領土の開発のために、社会民主党を与党に指名。必要に応じて与党を変更出来る点は立憲君主制の利点である。乱発は出来ないけど。社会主義系のイデオロギーが発生し、多元性が100%に達する。社会主義者が増えてしまうのが難点だが。(保守系だと多元性が減少し効果が相殺されてしまうので出番は与えない)
 12月に総選挙開始。自由党へ政権を戻す。(自由主義者より自由党支持者が多く出るのは、思想よりも政策を重視する人間が居るからだろうか?)
 11年9月、トリポリ戦争が起こる。イタリアと同盟を結んでいる関係でオスマン帝国との戦争に巻き込まれるが、わずか1ヶ月で終了。この一件では我が国は全く得をしなかった。そこで、と言う訳ではないがロシア・オスマンとの領土交換を行う。バルカン半島の領地を増やし、アルバニアを衛星国として独立させた。回収すべきギリシア領は残り二つ。領内の鉄道敷設が遅れ気味なので、オスマンから得た新領土の方がインフラ整備が進んでいるのは皮肉である。
 12年、ブルガリア人居住州で工場が完成。社会民主党を与党にして工員・事務員を作成。即座に総選挙。9ヶ月後に自由党政権に移行。
 13年8月、イタリアが保有する南ドイツ人居住県(旧オーストリア領)を入手し、ドイツへ譲渡。多額の手数料を獲得する。翌14年に4月にもイタリアから入手した県を南ドイツ県をドイツへ、交換で得たフランス人県(旧ベルギー領)をフランスへ譲渡。交換でクロアチアの中核都市を入手。5月にイタリアからクロアチア人都市を入手し、首都ザグレブを含む三県でクロアチアを建国。イタリアのこれ以上の南下を抑制したいところである。 

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第三章 セルビア処理
 少し話は戻るのだが、73年6月にオーストリアと同盟を結んでフランスに宣戦布告した。戦い自体は9月に敗戦で終わった(我が国に損害は無し)のだが、翌月にオーストリアより外交交渉でオルショヴァを獲得した。此処は唯一両国の係争から外れていたのだが、そこの住人は我らが同胞でありながらほぼ半数がカトリック信徒であった。ハンガリー支配下のトランシルヴァニアでは一部のルーマニア人がバチカンへ帰依したらしい。いわゆる東方典礼カトリックである。
 この先トランシルヴァニアを回復していけば、必ず宗教問題が発生するであろう。異教の同胞を迎えるに当たって、同教の異民族を抱えてバランスを取る事にした。既に国内には同じ正教を信仰するブルガリア人が居る。更に隣国のセルビア人を取り込む事にした。
 この理由は二つ。第一がオルショヴァがセルビア州に属する事。セルビア領を取り込む事で一括した開発が行え、且つ州内でのルーマニア人とセルビア人の均衡を取る事が出来る。トランシルヴァニアを回復したらブルガリアは切り離す予定だったのだが、これは取りあえず無しにした。状況によっては(将来的にBBR値が上がりすぎたら)再考する。
 80年7月、ボスニア放棄以来のセルビア・モンテネグロとの和平条約が失効した。82年12月、財政破綻を起こし国威を大きく失墜してたモンテネグロに宣戦を布告(これに先立ってオスマンから領土の譲渡を受けて通路を確保して置いた)し、翌年5月併合する。モンテネグロがセルビア全土への領土要求を放棄したので即座に独立を認めた。モンテネグロはセルビアを牽制する格好の道具となる。
 86年7月、ブルガリアとセルビアの開発のため共産党に組閣を命じる。工場建設だけなら今の政権与党ボアレスカ党でも可能だが、異民族に優しくないので工員や事務員を作成出来ないのである。
 87年1月2日、ロシアとの同盟が切れた直後のセルビアに宣戦を布告。4県を領し一度での併合が不可のためニシェの割譲のみで講和する。
 90年、ドイツとロシアが同盟してオーストリアを攻撃する。良い傾向だと思っていたのだが、終戦後に弱ったオーストリアとロシアが同盟を組んでしまった。対オーストリア開戦はまだまだ機が熟さないようだ。96年2月このロシア・オーストリア同盟はボスニアを攻撃。宗主国であるオスマンの支援もむなしく、ボスニアは北部の三県を失う。
 同3月、オマーンと開戦。初の海外出兵である。これはソマリア方面の植民地施設の奪取が目的である。12月に四県割譲で講和、これと前後してソマリアの領有を宣言した。オマーンより得た領地はオスマン帝国との取引に用いられる。
 97年5月、ボスニアに宣戦布告。かつての宗主国オスマンとの戦いは予期していたが、ドイツの参戦はやや予定外であった。但し、国境を接していないため取りあえず問題はない。11月にボスニアと和平。割譲は一括併合可能な最低限の線で止める。翌年1月にオスマンと講和。残るは難敵ドイツのみ。4月にフランスと同盟したら、イタリアも参戦してきた。6月にイタリアを盟主とした講和が成立する。
 98年9月、セルビアに宣戦。ロシア、ギリシア、オーストリアがセルビアに荷担。こちらの同盟はフランスとイタリアである。ロシアはドイツとの大戦中でこちらに兵を差し向けてくる気遣いはない。この開戦の主目的はオーストリアである。10月にセルビアを併合。セルビアはボスニア方面の領有は諦めたがモンテネグロ他の領有は譲らない。そこで予めモンテネグロに領地を委譲してあった。即日独立を許されたセルビアに与えられたのは首都サラエボの他一県のみである。一方、モンテネグロに預けてあった領土はオーストリアに接するボルを残して回収される。この時代替地に充てられたのは先にボスニアから獲得したモノである。
 99年10月、イタリアを盟主としたオーストリアとの講和が成立。フランスが二県、イタリアが四県、そして我が国は三県の中核都市を獲得した。此処までは良かったのだが…。

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第二章 独立への道
 57年4月5日。オスマンとロシアの間に無条件講和が成立。21日に連合軍とロシアとの間に和平条約が成立した。王国の占領地はそっくり獲得出来た。条約でベリツィを得ていたフランスと交渉し、オデッサとの交換を実現する。これでロシアから領地回収は完了した。オスマン帝国が持つ一県は交渉で得られるとして、懸案はオーストリア(厳密にはハンガリー)の支配地であるトランシルヴァニアである。これは戦争によって奪うしか方法がない。
 60年6月、オスマンより領土獲得。これでオスマン側の中核都市は回収完了。
 66年、晋奥戦争。オーストリアに独立保証を掛けて介入を試みるが、10日余りで終戦。ドイツの小国がプロイセンの衛星国である北ドイツ連邦とオーストリアの衛星国である南ドイツ連邦に統合される。
 同年9月、教皇領がイタリア統一の旗手となる。フランスが教皇領に、オーストリアが両シチリア王国に荷担。12月30日、イタリア統一。
 67年1月、オーストリアがハンガリー人に譲歩し二重帝国となる。(出来ればハンガリーが分離して欲しかったが…)
 70年6月、スペイン王位を巡ってプロイセンとフランスが開戦。イタリアはフランスとの同盟を破棄する。(この辺りから、フランスとイタリアの立場が逆転する)
 12月、オスマン帝国より領地を獲得。ブルガリア独立の阻止を目指す。
 71年、ロシア、バルカンへの介入姿勢を強める。
 7月、プロイセンとフランスの和平。ドイツ帝国の誕生。南ドイツ連邦は併合されるが、北ドイツ連邦は衛星国のまま独立を維持。
 75年、ボスニア蜂起。ルーマニアもオスマン側で参戦するも一ヶ月で鎮定。
 77年、露土戦争。これに先立ってオスマンとの防衛同盟を破棄。日和見を決め込む。その一方でソフィアをオスマンより譲り受け、ブルガリアの独立を阻止する。
 9月にサン・ステファノ条約が締結。ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立が承認される。(ブルガリアの独立が発生しないため、これに続くベルリン条約は生じない)

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