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第一章 王国誕生
 三大帝国に囲まれて分裂状態にあるルーマニア人達を統合すべく、ヴァラキア公国の戦いが始まる。
 宗主国オスマン帝国は、南下の動きを見せるロシア帝国を牽制すべく公国との関係改善を進める。一方のロシア帝国も、公国を味方に付けようとしてしきりに外交使節を派遣してきていた。
 43年4月、新兵が集結。自転車操業の公国にとって吉報である。
 44年6月、この二大帝国の対立を利用して、まずはオスマン帝国から技術と交換でコンスタンツァ県を獲得する。これにより公国は黒海への出口を確保し、バルカン方面での両帝国の緩衝地帯となった。しかし、コンスタンツァの住民はすべてブルガリア人。彼らをどう扱うか、前途多難である。
 50年4月、ロシアより独立保証。翌年の3月にはロシアからイスマイルの譲渡を受ける。クリミア戦争に先立ってこの地を確保出来たのは大きかった。それにしても、ここは我らが同胞(つまりルーマニア人)しか居ないのにウクライナが領有権を主張する土地であった。(此処を起点としてウクライナを衛星国として独立させる事が出来るが、ウクライナ人の居ないウクライナなどナンセンスだろう)
 51年4月、ロシアが反スラブ運動を開始する。バルカンを支配するオスマン帝国との激突は必死である。
 53年7月12日、クリミア戦争が開始。英仏は相次いでロシアに対し宣戦を布告する。また、オスマン帝国の衛星国であるセルビアやモルダヴィアもロシアに対して宣戦布告するが、これは多分にアリバイ作りのようなモノで、セルビアは翌13日に、モルダヴィアは少し遅れて15日に連合軍を離脱した。この機に乗じてオスマンからの独立を果たす選択肢もあったが(それ以前にロシアから同盟要請があった)、今回はロシアに勝ち目がないと見てロシアから領地を奪い取る好機と見て積極的な参戦を決める。13日に参戦要求を受諾し、直ちに隣接するオデッサへ兵を送り込む。
 プロイセンは14日に中立を宣言、スウェーデンも参戦を見送る。サルディーニャ・ピエモンテはフランスと同盟を結び25日に参戦する。オーストリアは8月4日に中立を選択。この後のロシア・オーストリア枢軸はこの時から始まったと言える。
 10月18日、オデッサを占領。勢いの乗ってキシナウへも兵を送り込み、一時は占領を果たすがロシア軍の反撃によって奪還される。公国軍と新兵による第一歩兵団はキシナウで壊滅した。戦争開始と同時に編成を開始した第二歩兵団、継いで第三歩兵団が入れ替わりで完成。苦戦を続ける公国とは対照的に連合軍は快調に占領地を拡大していた。
 55年7月、フランス皇帝ナポレオン三世が暗殺未遂で負傷する。これは我が国にとって吉と出るか凶と出るのか。
 56年2月、キシナウを再占領。以後、公国は占領地の維持に全力を挙げる。幸いにもフランスの占領地がこの二箇所を覆うように広がったため、これ以降はロシア軍との戦闘は無かったが。
 そして57年1月8日。モルダヴィアとの同君連合が成立し、ルーマニア王国が成立する。人口は大幅に増えたが、併合したモルダヴィアが極端な軍政状態(大量の兵士を抱えていた)経済的には却って厳しくなった。

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前回は分裂の阻止を第一目標にしていたので、今回は逆に祖国復興を目指します。
ドイツやイタリアだと、統一即列強になってしまうので、中堅国家をと言う事でルーマニアを選択しました。
と言ってもスタート時にはルーマニアという国はなく、その一部であるヴァラキアとモルダヴィアのいずれかと言う事になります。
ルーマニア建国イベントがあるのでどちらを選んでも似たようなモノですが、オスマンとロシアの両方に接しているヴァラキアの方が行動の自由度が大きそうなのでこちらを選びます。
オスマンとロシアが領有する領土に関しては外交交渉で獲得出来るのですが、問題はオーストリアが領有する分。これは彼らにとっても中核県(厳密にはその支配下のハンガリーの)なので戦って奪うしか有りません。
さて、どうなりますか…。

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第八章 帝国主義の時代
 29年10月に3000万を突破。さしあたっての目標はすべて達成した観がある。此処で新たな目標として思いついたのが石油資源の確保である。アブダビに殖民地戦争を仕掛け、翌30年4月に併合する。
 ペルシア湾はあまりに本国から遠い。せっかく送った兵を戻すのも面倒である。勢いに乗って隣国オマーンへ兵を差し向ける。31年3月より開戦し、翌年1月に全土を占領し即座に併合。本当は軍事拠点としてソコトラ島が欲しかっただけなのだが。即座に衛星国として独立させると、西部の二県だけ手元に残った。
 オマーンがザンジバル方面に持っていた領有権は当然に消滅。喜んだのはその方面を領有していたドイツとイギリスであろう。連邦にも余得はあった。オマーンがソマリアに持っていた植民地施設を入手していたのである。残りを持っているのは世界第三位の列強・イタリア。売り払おうにも両国の関係は非常に悪い。ならば、と殖民地戦争を仕掛ける事にした。
 イタリアが握るソマリアの植民地施設をすべて奪取し、ソマリアの領有を宣言する。制海権はイタリア側にあるので兵を本国へ戻す事も、逆に増員する事もままならない。行き掛けの駄賃と言う事で、内陸のエチオピアへ植民地戦争を仕掛ける事にした。間の良い事に、エチオピアはイタリアとの戦争に敗れて国威を大きく失っていた。しかもイタリアとの和平期間中なのでイタリアの干渉も無い。
 34年2月、全土の占領を完了し併合、即座に独立。手元に残った県の内ソマリアと接する一州を残して四県をイギリスへ譲渡。これは英国の植民地と接していたので交渉はすんなり成立。その引き替えとして旧コロンビア領の内二県を獲得して飛び地を解消。更にカリブ海のバハマ諸島を新たに領土として加える事となった。
 その後、イタリアとは講和が成立。少なくとも対イタリア戦争に関してはこちらの一方的な儲けになった。更に、アラビア半島の全土獲得を目指してイエメンを併合、即独立。更に内陸へと兵を進めたが、全土占領を完了する前に時間切れとなった。欲張らずアブダビとオマーン・イエメンから得た土地を繋げるだけも良かったかも知れない。

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第七章 列強入り
 20年9月、1500万人を突破。ふと隣国(実は間に友好国ベネズエラの飛び地が挟まっているのだが)のコロンビアが国威を大きく失っている。これを好機と宣戦を布告。ベネズエラに通過許可を貰えなかったので海路で軍を送り込み、あっという間に首都ボゴタを占領。6県の割譲で講和する。これでコロンビアは海に接する領地をすべて失った。その内、ベネズエラに二県を譲渡、またイギリスとの領土交換によりベリーズとジャマイカを獲得する。手元に残った旧コロンビア領はエクアドルと接触する二県のみ。結局実現しなかったが、この段階ではエクアドルとの戦争も視野に入っていた。
 22年9月に2000万突破。しかし中央アメリカ人の比率は78.4%。ジャマイカのクレオール人が6.3%、旧コロンビア領に住む北アンデス人が3.5%、建国からずっと居るメキシコ人は(総数としては増えているが、相対的に)2.7%に減少した。興味深いのが南北のドイツ系移民である。彼らは宗教が違うために同化せず、南ドイツ人は5.3%と国内第三位の北ドイツ人はそれよりも少ないモノの1.8%と軽視出来ない勢力を形成している。
 25年10月に2500万を突破。多数派の中米人はやや増えて79.0%だが、南ドイツ人が6.0%に増加し、第三位のクレオールの5.3%を越えてきた。以下、北アンデス人が3.5%、メキシコ人2.7%北ドイツ人が1.8%と続く。
 何故ドイツ系移民が多いのか。プロイセンがドイツ統一に失敗し、北ドイツ連邦がそれと拮抗して存在する事、また南ドイツはその大部分がオーストリア帝国の支配下に納まっている、と言うドイツの分裂状況が多分に影響しているのだろう。
 28年6月に列強の末席に名を連ねる。そして29年4月、工業力が2000を越えた。取りあえず旧宗主国スペインは凌駕した。宿敵だったメキシコも最早敵ではない。しかし新大陸最強を名乗るにはアメリカ合衆国があってとても無理。ではカトリック国最強はと見るとイタリアが第三位にいる。第5位のオーストリアも多数派はカトリックであろう。何となく中途半端な感じである。
 

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第六章 人口爆発
 96年2月、ホンジュラスの資本家が燃料精製所の建設を始める。石油も出ないしまだ自動車も普及していないのに。いや国内で出ないなら、どこか産油地域を取ってしまえば、と考えてから実行に移すまでまだ大分時間がある。
 自由主義政権が安定期に入ったので、97年にイデオロギー思想の研究に踏み切る。20世紀に入り、02年には人口が600万を突破。これは自然増の他に、移民とパナマの獲得が影響している。04年に国家と政府の研究を終える。選んだのは発生順に聖職者主義、官僚制、能力主義そして人民主義である。
 05年に最初の減税。貧困層の税率を37.%とする。更に09年には中流・富裕層も42.19%に減税。
 10年2月に700万人突破。新大陸において我が国より人口が多いのは5ヵ国のみ。アメリカ合衆国はともかく、他の4ヵ国(メキシコ・カナダ・ブラジル・チリ)は抜きたいところである。12年1月に800万突破。この間わずか二年である。このまま領土拡張を行わなく出も、移民と自然増だけで1000万の大台はは楽に越しそうである。
 13年に経営戦略が完成。残っていた貴族の内、パナマとニカラグア(既に存在した資本家に合流)が資本家に変化。ホンジュラスとコスタリカは貴族のまま。
 14年2月に900万突破。やはり二年で100万のペースである。15年7月、今まで主に兵士の供給所となっていたエルサルバドルにも遂に資本家を配置。この時点で資本家の人口比率は3.4%。貴族と合わせても富裕層は4%を越えないだろう。
 16年1月、遂に1000万人を突破。このまま2年で100万増のペースが維持されるなら3000万まで届くか届かないかと言う所だが…。

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