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フランスはほぼ終了。
続いてドイツに取りかかろうと思うのですが、さて何処までを戦場とすべきなのか。
テーマは宗教改革と農民戦争。
シュヴァーベンとヘッセン、チューリンゲン辺りまでは入れないと格好が付かないような。
ブランデンブルグは圏外としてバイエルンは微妙。
オーストリア本国は外してもチロルは入れないと全体的な繋がりが悪いし。
まずはドイツ人武将を増やすことから始めないと。

主戦場がますますイタリアから離れていく。
でも、ルターの登場も発火点はイタリア、と言うかローマ教会なんだし。

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自作シナリオに対する一つのこだわりとして、武将数を国の街と同数から最大で一割り増しまでを目処としている。
国内シナリオのように情報がふんだんにあれば、武将数の方が多めになるので誰を削るかと言う話になるのだが、
国外を舞台にする場合、情報量の格差によって武将が目標数に足りないことが良くある。
どのシナリオでも、まずは継承権のある王族、次に名だたる合戦の指揮官、そして有力貴族と続くのだが、今回の場合はそれでは足りずに聖職者に当たっている。
情報源は主にウィキペディアなのだが、日本語版ではとても足りないのでまずはそこそこに判る英語、次に何となく判るドイツ語と進む。
しかし、現在作業中のフランスは、データが見つかっても日本語での読み方が判らない。
言語的知識の問題もあるのだが、フランスの場合は革命があったりして教区が変更されたり、古い都市が寂れて新興都市に取って代わられたりと馴染みのない名前がたまに必要となる。
そこまでしても、ゲーム的には大して違いは出ないんだけどねえ。

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フランスとドイツの間にあったのがブルゴーニュ公国ですが、
これは別に武力侵略を受けた訳ではなく、時の当主に娘が一人しか居なかったところに隣の皇帝家から婿を取ったことから吸収されてしまった訳です。
厄介なことに、ブルゴーニュ家は元は反対隣のフランス王家の親戚だったので、分け前を巡って一触即発。
欧州史ではおなじみ?の継承戦争と相成りました。
婚姻と相続の際に常に付きまとうのがサリカ法。
要するに娘には跡継ぎの資格はありません。亡くなった当主に娘しか居ない場合には、遡って男子継承者を捜すのですが、これには明確な順番はなく最後は力ずくと言うとになります。
これはゲルマン族の伝統なので、この法が適用されない王家もありまして、
昨日ふれたナバラ王国もこの法の適応外であったので、王位が巡り巡ってブルボン家の手に落ちた訳です。

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スペインとフランスの国境、ピレネー地域に存在したバスク国ですが、
そもそも彼らの言語は印欧語族に属さない、つまり元々周囲とは異質な民族だったようです。
恐らくはローマ化の過程で山中に取り残されたのでしょう。
それも中世を経て周囲と文化的にはさほど差はなくなっていたと思われます。
ピレネーの南北にまたがるパンプローナ王国が建国されますが、これが分裂してカスティーリャやアラゴンという国歌が生まれます。
この両国が合同してスペインが生まれるのですが、それはまだ先の話。
北側ではこれに先立ってガスコーニュ公国が誕生しています。このガスコーニュの語源がバスクな訳ですね。
ピレネーの南にスペインが、北側にフランスが強力な統一王国を築くと、
パンプローナ王国この頃にはナバラと改称していますが、双方から削り取られて消滅します。
南側は一足早く占領され、王族は婚姻によって手に入れた北側の領土へ落ち延びます。
こちらの方は最期のナバラ王エンリケがフランス王位を継承してアンリ4世となる訳です。
これって見方を変えればスペインもフランスもバスク系の王家によって支配されたことになる訳ですが。

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通常版の方は色々と不備が見つかったので取りあえず引っ込めました。

調べていて思ったのは、陸続きの国は大変だなあと。
スペインとフランス、フランスとドイツの境界領域には、
どっちにも属さない領主がいて、状況に応じて右に付いたり左に付いたりしていたようですね。
スペインとフランスの境界にあったナバラ王国はヨーロッパ系と異なるバスク人の国で、でも長い間に貴族階級は通婚が進んでいたので、分割吸収されていく、16世紀初頭というのはちょうど過渡期だった訳です。
一方のフランスとドイツの境界は、元は両国にまたがるフランク王国が東西に分裂する時に境界線を引かれた訳ですが、
これも此処に線が引かれることに全く意味がなかった訳でもなく、
西側はほぼ全域がローマ化されていたのに、東側はローマ化されなかった領域でした。
とは言え、長い中世の秋を経てそんな違いは大した問題ではなく、どこで線引きが確定してもおかしくなかったと思われます。
何となく思うのは、ドイツとスペインがハプスブルクという一つの王家で占められなかったら、
逆にフランスはもっと小さく纏まったのではないかと。

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