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某ブログで「日本には宗教の自由がない」と言う内容を読んだ。
反論ではなく、一般論として、国家に対して宗教の自由を保障しろと訴えるのはナンセンスである。
宗教というのはその発生に置いて反社会的であり、それが発展するか衰退するかはそのどこまで社会との折り合いを付けるかに掛かっている。
国教=祭政一致というのは、宗教倫理と社会秩序とが利害共闘を結んだときに成立する。
時に、この状態を宗教的な堕落ととらえ、本来の教えに立ち返れと主張する一団が現れる。
これが原理主義である。
原理主義者が反社会的であるのはある意味で当然である。

改めて言うが、宗教活動というのはどこか反社会的な要素を含むモノである。
それを自覚した上で、他人にそれを強要しないこと、他人のその信仰を攻撃しないこと。それが宗教の自由というモノだろう。
宗教の自由を主張するならば、宗教団体を作るに際して国家の許可など求めなければいい。
鎮護仏教の時代には、出家は国家の許可が必要だった。
何故許可が必要かと言えば、出家にはある種の特権が与えられるからである。
つまりそういう利益を求めないので有れば、勝手に出家しても何ら問題は生じないはずだ。
これこそが仏陀の教えの本来の姿であった。
しかし、仏陀の精神に立ち返れば、すべての人間が仏陀の如く生きれば、社会秩序は崩壊する。

宗教の自由を主張するなら、国家の許可など求めずに個人の責任で勝手にやれば良い。
金がなければ救われないので有れば、救って貰わなくて結構である。
救って貰うのに金が必要なら、国家に頼る方がましだ。

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