忍者ブログ
兼・更新日記
[365] [366] [367] [368] [369] [370] [371] [372] [373] [374] [375
カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
最新記事
最新TB
バーコード
ブログ内検索
お天気情報
フリーエリア
ブログ広告ならブログ広告.com 冬至楼均さんの読書メーター 【トレミー】人気ブログランキング
最新CM
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

第五章 パナマ解放作戦
 92年の総選挙では自由派が47.5%。保守と反動を合わせても37.5%と及ばない。これは急進的な無政府自由主義者が11.1%に達するためである。この選挙期間中に大幅な減税を施行し国民の急進性を下げる方策を行った。
 12月1日に自由党政権の存続が決まると、防衛費を最大に引き上げた。いよいよ宿願のパナマ解放作戦の始動である。
 ベネズエラとの同盟は失敗。コロンビアがエクアドルと防衛同盟関係にある事が問題なのか。よく見ると、エクアドルは国威を大きく失っている。そこで(国威の減少を避けるため)コロンビアではなくエクアドルに対して宣戦を布告した。計算通りコロンビアは戦争に加わってくる。
 人口では我が連邦は480万余りに対してコロンビア・エクアドル連合は550万少々とやや負けている。ここは短期決戦に持ち込むべきであろう。
 海路首都グアテマラを直撃してきたエクアドル軍を撃退すると、主力をパナマ侵攻に差し向けた。94年2月4日、コロンビアの首都ボゴタを占領。連邦はパナマ州3県の他、それに隣接する1県を獲得した。直ちにパナマに資本家を配置し、出遅れていたパナマの開発を開始した。余得のギブド県については96年にベネズエラへ譲渡し代償として軍事技術を大量に入手した。これも後から考えるともう少し待っても良かったかも知れない。
 少し戻って95年1月、機関銃が発明される。これで海外植民地を作れる、と思ったのだが、狙っていた太平洋の島々は既に英米に取られていた。機関銃の発明が遅かった事もあるが、ハワイを手元に残しておけばと改めて感じた。  

拍手[0回]

PR
第四章 高度経済成長期
 72年、再び二大政党制へ移行。社会党を与党とし、即座に民主制へ移行。社会党政権下で、まだ工場を建てていなかったニカラグアに織物工場を、続いてサルバドルに缶詰工場を建設する。6月に制限選挙制を施行し、11月に自由党政権が誕生する。
 しばらくは何事もなく推移するが、77年に資本家が汽船建造所の建設を開始する。これが非常な利益をもたらし国庫を潤す事になるのだが、それはともかく77年8月1日に自由党政権の存続が決まる。が直後の18日に議会のスキャンダルが発覚。10月に解散総選挙に打って出る。
 この時点で自由派が44.4%、保守派が37.8%、反動主義者が20.3%。保守派の分裂を好機として普通選挙を導入。投票日の78年7月1日には自由派はやや目減りした(自由派40.4%、反動主義28.3%、保守派21.2%)モノの、自由党政権は無事に信任された。
 さて79年5月1日、汽船建造所が稼動を始める。これがこれまでにないほどに利益をたたき出し、租税のみで国政が賄える状況になったので、関税の廃止に踏み切った。
 80年5月、人口が400万人を突破。この頃から聖職者を随時事務員へと転向させる。82年7月1日の総選挙では、やはり保守層の分裂により自由党政権の存続が決まる。(自由38.9%、保守28.0%、反動18.2%)
 ホンジュラスに資本家を配置。この頃から各地に毎年のように工場が造られるようになる。当然に工員・事務員の比率が上がっていくのだが、自由主義者はさほど増えない。どうやら社会改革の遅れが影響しているようである。
 86年8月、保守派の突き上げ(保守41.0%、自由37.1%)により解散総選挙が行われる。翌87年5月保守党政権が誕生し、最低限の安全規則、少額の最低賃金を導入。即座に総選挙に打って出る。だが、翌88年3月、政権を握ったのは自由党であった。

拍手[0回]

第三章 疑似二大政党制時代
 52年末、集会の自由を認める。これにより明けて53年1月1日に民主制へ移行し総選挙が開始される。民主化へ踏み切った理由は二つ。工場建設は良いとして、鉄道の敷設は資本家による方が遙かに効率がいい。そして鉄道を布くとプロヴァンス毎の生産性が上がる。第二に、民主化して自由主義政権を作った方が移民の効率が大きい。とは言え、このままでは保守系の政権が出来てしまうので、富裕層のみの制限選挙の導入を行う。
 53年10月1日、予定通り自由党政権が誕生。グアテマラに最初の資本家が誕生する(色々とやってみたが、資本家を置くならまず此処であろう。後半に資本家へ資金が廻らず開発が頭打ちになってしまった事があるが、貴族との競合が問題らしい。そこで共産党時代に貴族を出来る限り削って見た訳である)。政治改革としては、報道の規制を緩め国営放送から検閲報道にする。(ここは一気に自由報道でも良かった気がする。と言うのも…)
 10月5日、自由主義革命が勃発。といっても、自由主義者はまだそんなの多くないのでさしたる影響は無いのだが。(革命を回避するためには自由報道と組合の制限無しが必要であった)
 翌54年7月4日、革命は何事もなく終焉を迎える。
 ここから15年ほどは、何事もなく順調に工業化が進むのだが、選挙の度に保守層の急進性が上がっていく。そして68年の段階で遂に反動勢力が最大多数に達した。そこで4月1日に普通選挙による総選挙に踏み切った。
 69年1月1日、再び国民党が政権与党の座に返り咲く。自由貿易を掲げる自由党政権時代には不可能だった最大関税を導入し、その代わりに貧民層の税率を37.50%まで引き下げた。この後、民主化と独裁のサイクルを繰り返し、高まっていた保守層の急進性を下げる事に腐心する。
 71年1月1日、汽船による輸送艦隊を編成し、海外進出を試みる。その目標はハワイ王国。8月に侵攻を開始し、11月には併合を完了する。驚くべき事に、地元民よりもヤンキー(北部アメリカ人)の方が圧倒的に多い。とてもステート化出来ないと思い、即座にイギリスへ売却してしまう。(ハワイで算出する魚を目当てに併合したのだが、何故だが全く倉庫に入らない。後で気付いたのだが、輸送用の船を用意していなかっただけなのであった)

拍手[0回]

第二章 共産主義の台頭
 43年1月1日、集会の自由を禁じた上で政党を解禁した。2月1日、二大政党制へ移行。保守党を与党に指定し低水準の医療制度を導入した。(集会の自由をそのままにしておくと即座に民主制へ移行してしまい、政権与党を指定出来ない)
 そして集会の自由を認め、国民党時代には不可能だった兵の退役を行い、各地に散らばっていた兵士をサルバドルへ集中する。
 3月1日、民主制へ移行(実は42年中に一度民主制・独裁のサイクルを一度やっていたためにまだ総選挙期間中であった)。世論はまだ反動主義が主流であったため、6月1日に再び国民党政権となる。当然、翌月には再び独裁制へと戻ってしまう。
 47年末、再び集会の禁止と政党の解禁を行う。明けて48年1月1日、二大政党制へ移行。ここで政権与党を出来たばかりの共産党(社会党と共産党は48年から登場する)へと変更する。確認はしていないが、恐らくは世界最初の共産党政権国家であろう。
(自由放任政策では資本家が工場や鉄道整備を自動的に行うのだが、工場に関しては所在州のみしか行わず、開発に地域差が発生してしまう。そこで計画経済を行う社会党か共産党の登場となったのだが…)
 社会党でなく共産党が選ばれたのは、社会党が厭戦主義なのに対して共産党が好戦主義であったこと。(もう一つはより急進的な共産党の場合、民主化してプロレタリア独裁への移行も可能だった点が有ります。まあ、試行錯誤の結果、その線は捨てられましたけど)
 50年1月7日、連邦の存続が確定。共産党政権で資金に余裕が出来たので、そろそろ外交にも乗り出します。第一目標は将来のパナマ奪還を考慮して、コロンビアの背後に位置するベネズエラとの接近。
 52年11月、共産党政権下での貴族=地主階級への圧迫政策(税率を100%にしただけ)によりサルバドルの貴族が転落。共産党が倒れるのが先か、貴族がすべて居なくなるのが先か?

拍手[0回]

試行錯誤の末にどうにかゲーム終了まで到達。どうにか列強の末席に滑り込む事が出来ました。
と言う訳でリプレイの様なモノを…。

第一章 連邦の危機
 中米連邦の建国の父フランシスコ・モラサンは連邦の維持に苦闘していた。
 彼は自由派であったが(それを考慮してスタート時の与党は自由党である)保守層である地主達は自己の保身に汲々として分離派の扇動に揺れ動いていたのである。
 36年4月20日、モラサン大統領は分離派の虚を突いて総選挙に打って出た。(実は解体イベントの直後に選挙結果が出るように計算していたのである)国民の大多数を占める農民・坑夫達の大多数は保守的だが現在の選挙制度では彼らに投票権はない。またそれを疑問に思う風潮もまだ無かった。選挙民は自由党を支持している。この選挙には十分に勝算有りと思われたのだが…。
 37年1月8日、分離主義者達の扇動により国内は騒然となる(「連邦解体」イベントにより全国民の急進性・政治意識が最大になる)。
 国民の大多数を占める保守派は反動に走り、大統領の支持層であった自由派も無政府主義を標榜している。此処にいたって選択肢は二つ。このまま選挙を続けて無政府主義者(急進党)の手に政権を渡すか、あるいは今や熱狂的な国民の支持を得た保守反動(国民党)の手腕に期待するか。大統領の選択は後者であった。
 大統領は普通選挙の導入を宣言した。(この時期はいつでも良かったのだが、どのみち「連邦解体」により急進・意識は最大になるのでそれ以前には無意味。不測の事態に備えて資金を温存したかった事もある)
 1月20日、政権は反動勢力=国民党の手に渡った。大統領職を去ったモラサンは隠遁し故郷ホンジュラスへ帰った。いつか再登場の機会が来ると信じて…。
(初期設定にある政党は与党「自由党」の他「保守党」「国民党」「急進党」の四つ。この内で国民党のみが「保護貿易」を提唱していた。これにより国民党政権では関税を最大に出来る。資金の乏しい序盤にはこれが何よりおいしいのである)
 だが事態は更に激化する。2月1日、国民党は憲法を改正し、一党独裁体制を布いた。この混乱の中グアテマラ派のラファエル・カレーラは謀殺されたと言う。情報遮断されていた国民達はこの政変を盲目的に支持し、分離闘争は沈静化していく。
(これは後から知ったのだが、急進的な政党が普通選挙で政権を握ると発生するイベントが有ったらしく、これにより反動主義者つまり国民のほとんどの急進性が1ポイント下がる。これで暴動確率は多少なりとも改善するが、万全と言う訳ではない。この状態で政党を解禁すると民主制に変わり自由主義者の急進性が下がる。だがそのままだと再度大統領独裁に戻る。これを繰り返すと一気に急進性を下げられるが、そこまでしなくても急進性は下がり続け、42年頃には暴動の危険性はほとんど無くなった)
 多元性の低い内は独裁制でも問題はないが、やがて民衆にも自由への渇望が高まっていく。さらには研究を促進するために教育費を最大にしているので識字率は上がり続けている。よって、今後の課題はいつ独裁を解くかなのだが…。

拍手[0回]

前のページ      次のページ
プロフィール
HN:
冬至楼均
HP:
性別:
男性
amazonブログパーツ
忍者アド
アクセス解析
過酷人生ゲーム
Powered by Ninja Blog    template by Temp* factory    icon by MiniaureType

忍者ブログ [PR]