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正確には本選の前の党指名候補争いですが、初の黒人大統領を目指すオバマ氏と、初の女性大統領を目指すクリントン女史との争いが続いています。
スーパーチューズデイ以降オバマ氏に傾いていた流れが止まり、戦いは長期化の様相を見せてきました。
民主党の候補者選びが遅れれば、(日本にとっては都合の良い)共和党がそれだけ有利になりそうですが。

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野党がへそを曲げて予算その他の審議が止まっているようですが。
そんな事をしていたら、参議院と野党の存在価値がますます無くなってしまいますよ。
特に予算案はほっといても衆議院での議決で決まってしまうのだから、文句があるなら参議院で修正を行うべきなのに。
修正案を出してくれないと与野党間の比較が出来ません。

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第三章 セルビア処理
 少し話は戻るのだが、73年6月にオーストリアと同盟を結んでフランスに宣戦布告した。戦い自体は9月に敗戦で終わった(我が国に損害は無し)のだが、翌月にオーストリアより外交交渉でオルショヴァを獲得した。此処は唯一両国の係争から外れていたのだが、そこの住人は我らが同胞でありながらほぼ半数がカトリック信徒であった。ハンガリー支配下のトランシルヴァニアでは一部のルーマニア人がバチカンへ帰依したらしい。いわゆる東方典礼カトリックである。
 この先トランシルヴァニアを回復していけば、必ず宗教問題が発生するであろう。異教の同胞を迎えるに当たって、同教の異民族を抱えてバランスを取る事にした。既に国内には同じ正教を信仰するブルガリア人が居る。更に隣国のセルビア人を取り込む事にした。
 この理由は二つ。第一がオルショヴァがセルビア州に属する事。セルビア領を取り込む事で一括した開発が行え、且つ州内でのルーマニア人とセルビア人の均衡を取る事が出来る。トランシルヴァニアを回復したらブルガリアは切り離す予定だったのだが、これは取りあえず無しにした。状況によっては(将来的にBBR値が上がりすぎたら)再考する。
 80年7月、ボスニア放棄以来のセルビア・モンテネグロとの和平条約が失効した。82年12月、財政破綻を起こし国威を大きく失墜してたモンテネグロに宣戦を布告(これに先立ってオスマンから領土の譲渡を受けて通路を確保して置いた)し、翌年5月併合する。モンテネグロがセルビア全土への領土要求を放棄したので即座に独立を認めた。モンテネグロはセルビアを牽制する格好の道具となる。
 86年7月、ブルガリアとセルビアの開発のため共産党に組閣を命じる。工場建設だけなら今の政権与党ボアレスカ党でも可能だが、異民族に優しくないので工員や事務員を作成出来ないのである。
 87年1月2日、ロシアとの同盟が切れた直後のセルビアに宣戦を布告。4県を領し一度での併合が不可のためニシェの割譲のみで講和する。
 90年、ドイツとロシアが同盟してオーストリアを攻撃する。良い傾向だと思っていたのだが、終戦後に弱ったオーストリアとロシアが同盟を組んでしまった。対オーストリア開戦はまだまだ機が熟さないようだ。96年2月このロシア・オーストリア同盟はボスニアを攻撃。宗主国であるオスマンの支援もむなしく、ボスニアは北部の三県を失う。
 同3月、オマーンと開戦。初の海外出兵である。これはソマリア方面の植民地施設の奪取が目的である。12月に四県割譲で講和、これと前後してソマリアの領有を宣言した。オマーンより得た領地はオスマン帝国との取引に用いられる。
 97年5月、ボスニアに宣戦布告。かつての宗主国オスマンとの戦いは予期していたが、ドイツの参戦はやや予定外であった。但し、国境を接していないため取りあえず問題はない。11月にボスニアと和平。割譲は一括併合可能な最低限の線で止める。翌年1月にオスマンと講和。残るは難敵ドイツのみ。4月にフランスと同盟したら、イタリアも参戦してきた。6月にイタリアを盟主とした講和が成立する。
 98年9月、セルビアに宣戦。ロシア、ギリシア、オーストリアがセルビアに荷担。こちらの同盟はフランスとイタリアである。ロシアはドイツとの大戦中でこちらに兵を差し向けてくる気遣いはない。この開戦の主目的はオーストリアである。10月にセルビアを併合。セルビアはボスニア方面の領有は諦めたがモンテネグロ他の領有は譲らない。そこで予めモンテネグロに領地を委譲してあった。即日独立を許されたセルビアに与えられたのは首都サラエボの他一県のみである。一方、モンテネグロに預けてあった領土はオーストリアに接するボルを残して回収される。この時代替地に充てられたのは先にボスニアから獲得したモノである。
 99年10月、イタリアを盟主としたオーストリアとの講和が成立。フランスが二県、イタリアが四県、そして我が国は三県の中核都市を獲得した。此処までは良かったのだが…。

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中国政府は国内での混入の可能性はないと明言しました。
あの国なら、蜥蜴の尻尾切りで製造業者に責任を押しつけて、(当然、企業は潰れるでしょうけど)
中国製品全体の問題ではないと言い抜けるかと思いましたが。
原因が分からない限り中国製品への信用は戻りませんね。

しかしそれ以上に空気が読めないのは我が国の首相。
中国の対応のどこが前向きなんだか…。

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第二章 独立への道
 57年4月5日。オスマンとロシアの間に無条件講和が成立。21日に連合軍とロシアとの間に和平条約が成立した。王国の占領地はそっくり獲得出来た。条約でベリツィを得ていたフランスと交渉し、オデッサとの交換を実現する。これでロシアから領地回収は完了した。オスマン帝国が持つ一県は交渉で得られるとして、懸案はオーストリア(厳密にはハンガリー)の支配地であるトランシルヴァニアである。これは戦争によって奪うしか方法がない。
 60年6月、オスマンより領土獲得。これでオスマン側の中核都市は回収完了。
 66年、晋奥戦争。オーストリアに独立保証を掛けて介入を試みるが、10日余りで終戦。ドイツの小国がプロイセンの衛星国である北ドイツ連邦とオーストリアの衛星国である南ドイツ連邦に統合される。
 同年9月、教皇領がイタリア統一の旗手となる。フランスが教皇領に、オーストリアが両シチリア王国に荷担。12月30日、イタリア統一。
 67年1月、オーストリアがハンガリー人に譲歩し二重帝国となる。(出来ればハンガリーが分離して欲しかったが…)
 70年6月、スペイン王位を巡ってプロイセンとフランスが開戦。イタリアはフランスとの同盟を破棄する。(この辺りから、フランスとイタリアの立場が逆転する)
 12月、オスマン帝国より領地を獲得。ブルガリア独立の阻止を目指す。
 71年、ロシア、バルカンへの介入姿勢を強める。
 7月、プロイセンとフランスの和平。ドイツ帝国の誕生。南ドイツ連邦は併合されるが、北ドイツ連邦は衛星国のまま独立を維持。
 75年、ボスニア蜂起。ルーマニアもオスマン側で参戦するも一ヶ月で鎮定。
 77年、露土戦争。これに先立ってオスマンとの防衛同盟を破棄。日和見を決め込む。その一方でソフィアをオスマンより譲り受け、ブルガリアの独立を阻止する。
 9月にサン・ステファノ条約が締結。ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立が承認される。(ブルガリアの独立が発生しないため、これに続くベルリン条約は生じない)

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