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馬上での居眠りについて。
馬に乗ったまま眠れるというのは普通に凄い気もします。
若い頃からの癖で馬上で居眠りしたら、落っこちてそれが元で死んでも不思議はないな。と言う意味の意見を書いたら、
「勝手にそんな「事実」を作るな」と文句が来ました。
落馬死亡説はごく一般的なモノですが。
「仮説の一つだ」とか言って謝罪も訂正も有りませんでしたよ。

さて、居眠りの一件では結局父と合流出来たのですが、その後もう一度はぐれてこれが今生の別れとなりました。
父義朝は部下の裏切りで命を落としているので、一緒にいたら頼朝も殺されていたでしょう。その意味で彼は運が良かったと言えます。
個人的な意見としてはこれはわざと別行動を取ったのではないかと考えます。
義朝が無事である限り、幼い頼朝はたとえ捕まってもすぐに殺されることは無いでしょうし、逆に義朝が殺されてしまえば、頼朝を焦って殺す必要も有りません。
頼朝が助命された経緯については清盛の継母が強く働きかけたからなのですが、これは”本来の”怨霊信仰が働いていたのかも知れません。

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頼朝の「政治的天才」を否定するなら最も主戦場となるはずのテーマなのですが。
鎌倉幕府の施策を頼朝個人から切り分ける事は不可能ではないかと言う反論に答えられずに撃沈。

C氏は「頼朝は鎌倉幕府創設に際して武功がない」と主張。
彼が「政治の天才」かどうかを問うのに、武功の有無は全く問題にならないのですが、
「部下の武功は任命者に帰する」と反論してみると、
「形式的にはそうですが、実質的にはそうとはいえません。」
はあ?
「彼の功といえば、彼の人となりが敵方の武将達の野心をくすぐり寝返らせたくらいです。」
それこそまさしく彼の「政治的天才」ではないのか?

彼は組織というモノを全く理解していないようです。

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改めて某所での頼朝についてのやり取りについて考察します。

スレ主C氏の主題は頼朝の「政治的天才」の否定にありました。
そこで彼が提示した論拠は大きく三つ。
第一が平治の乱に於ける敗走中、頼朝が馬上で居眠りして父達からはぐれてしまったこと。
第二が流人時代、監視役の娘に手を出して殺され掛けた事例。後に正室となった政子の例は有名ですが、それ以前にも別の女性を孕ませて命からがら逃げ出しています。それを匿ったのが北条時政でした。
第三が頼朝傀儡説です。

三番目は置くとして、前の二つは目的に対して有効とは思えません。
平治の乱の時は頼朝はまだ12歳。責任を問うには幼すぎるし、責任があるとすれば父の義朝にこそ帰するべきでしょう。それに、これは頼朝の軍事能力の不足の傍証にはなっても、政治能力とは関係有りません。
女性問題については、「英雄色を好む」と言われるようにむしろ英雄的なイメージを与えます。それに、二番目のケース(つまり北条家)については北条家を味方に引き入れた成功例ではないでしょうか。

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本稿を書くきっかけとなった某掲示板でのやり取りがほぼ終息した。

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この二人は頼朝・義経と違って同母兄弟でした。
にも関わらず、運命は二人を対決へと導きます。
この二人の特異な点は、生き残った兄が武人型で、敗れた弟の方が官吏型政治家だった点でしょうか。
山風は二人を評して「西郷が大久保を倒した」と書いています。
政治家型の弟が兄を討てなかった理由は兄弟愛も有りますが、弟に実子が無かった点も大きかったのではないでしょうか。

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