第二の人物D氏は
「ちょっと視点を変えた方が良いですね」
と題して参戦してきましたが、悉く的を外しています。
D氏の頼朝批判は、彼の「学習能力の無さ」でした。
平治の乱に際して、彼は都合二度はぐれています。一度目は居眠り、二度目は降雪のため。しかし、この一件の責は父義朝にあって年若い頼朝を責めるのは酷です。
女性問題でも二度起きています。一度目は確かに殺され掛けましたが、二度目は一度引き離されたモノの結局許されています。
むしろ一度目のケースの方が異常なのかも知れません。
しかし問題はこの後です。
D氏は頼朝が「政治の天才」であれば、北条一族は粛清されるべきであったと主張します。
しかし、北条一族は頼朝にとって最も信頼出来る味方であり恩人です。それを真っ先に粛清すべきなど狂気の沙汰としか思えません。
これなどは下種の後知恵と言うべきモノですね。
そして彼の結論はC氏が先に否定した「頼朝傀儡説」に至ります。
にも関わらずこの投稿を受けてC氏は頼朝嫌いの味方を得たと「援護射撃へのお礼」
を述べます。両者の主張は明らかに食い違っているというのに。
(中道政権に対して極右と極左が共に批判を行っているかのように…)
D氏の論はこの後更に暴走し、スレ主のC氏はこの後姿を消します。流石にやばいと思ったのでしょう。
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明らかに本筋から外れているので敢えて指摘しませんでしたが、
二度目の遭難については、わざと別行動を取ったのではないでしょうか。
はぐれた頼朝が身を潜めたのは近江浅井。そして父義朝が討たれたのは尾張です。
これが単純な遭難で有れば、頼朝は死んでいてもおかしくありません。幼い頼朝には雪中行軍は無理と判断されたのでしょう。
実際、頼朝は雪が溶けてから義朝の後を追って尾張へ向かっています。
前にも言いましたが、頼朝単独で有ればその場で殺される可能性は低いです。父や兄が生きていれば人質として、死んでいれば将来は知らず当座は無害な存在です。
頼朝にチャンスが巡ってきたのは平家政権内部の抗争のおかげです。
殺すチャンスが有ったときには理由が無く、理由が出来たときには既にチャンスは喪われていました。
その意味で頼朝は幸運だったと言えましょう。