忍者ブログ
兼・更新日記
[19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新記事
最新TB
バーコード
ブログ内検索
お天気情報
フリーエリア
ブログ広告ならブログ広告.com 冬至楼均さんの読書メーター 【トレミー】人気ブログランキング
最新CM
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

老後の心配をするのは人間だけ。
人間以外の野生動物はそもそも老後を心配するほど長生きしない。
親離れ・子離れというのも人間特有の問題だろう。野生では、成人した子供は生存競争のライバルになる。
しかし人間は老後の心配をするから、子供を簡単に突き放せない。
子孫を残す事によって社会を持続させようと思ったら、子供を育てる事と老後の生活とを完全に切り離す制度が必要だろう。
要は子供を育てる事が老後の不利にならなければよい。
逆に子供を多く育てる事が有利になるような制度は不公正であり、おそらく長期的には破綻する。

人に買われているペットも管理された生活故に老衰死するようになったらしいけど。彼らは少なくとも死に対する恐怖はないだろう。
人間は死を恐れる、その一方で老後の不安を抱える。これは大いなる矛盾ではないか。

拍手[0回]

PR
昨日の続きと言う事になるのだが、
反対派の(つまり改正すべきでないと言う)意見として、
人の生死にまつわる法律を国会議員の採決で決めて良いのかと言うモノがあった。
流石に人権派と言えなくもない。
しかし、国民に聴くと言う作業がないと言うならばいっそ国民投票を提案すればいいのに、護憲派としては(公民投票法の本丸である憲法改正論議に絡むので)言い出しにくかったのだろう。
まあ、死の定義というならば、医学的に決定すべきであってそもそも法律として規定されるべきではないのだろうけど。

拍手[0回]

辞めた鳩山元大臣が未だに自分は正しいと主張しています。
今更ですが、彼の何が気に入らなかったかにようやく気付きました。
政治家は、特に民主制における政治家は、「正しい事」を主張してはいけない。
「自分が正しい」と言う主張の裏は、自分に反対する人間は正しくない。極論すれば悪であると言う事になり、単純な二元論に陥ってしまう。
政治というのは結局の所、妥協の産物であり、初めに「正しさ」を主張すれば、少しの妥協も「不正義」となってしまうのだ。
政治家が作るのは正しい世の中ではなく、豊かな世の中である。
政治家は自分の掲げる政策によって利益の得るモノ、不利益を被るモノを明確にすべきなのだ。
民主制は多数決で決まるのだから、より多くの人間が得する政策が、結果的に「正しい」事になる。
これは社会正義とは別次元の話である。

有権者は「正しさ」を主張する政治家には注意すべきである。

拍手[0回]

昨日の続き。

人を殺めたモノはその命をもって償え、と言う論がある。
感情論としては理解できるけど、賛同はしない。
多重殺人者は自分一人の命では贖いきれないからだ。
重犯罪に関して言えば、死刑は犯罪抑止にはならない。
一人殺しても死刑なら何人殺しても…、となりかねないからだ。

死刑というのはある種の救済である。
被害者にとっても、加害者にとっても。

拍手[0回]

凶悪事件があると、良く「責任能力」が問題となる。
しかし、個人的には殺人を犯すような人間は(様々な意味で)どこか普通じゃなくなっているのではないか。
よって、事件の当時の責任能力を問う事自体が無意味ではないかと思っている。
逆に事件を犯した時点で正気であっても、事件そのものへの良心の呵責からおかしくなってしまう人間もいるのではないか。

いわゆる責任能力論が凶悪犯罪者の死刑回避に、都合よく使われているのではないかと危惧する。

拍手[0回]

プロフィール
HN:
冬至楼均
HP:
性別:
男性
amazonブログパーツ
忍者アド
アクセス解析
過酷人生ゲーム
Powered by Ninja Blog    template by Temp* factory    icon by MiniaureType

忍者ブログ [PR]